阪急ブレーブス通信

〜阪急ファンで行こう!EVOLUTION〜

DH(指名打者)で輝いた阪急最後の「ミスターブレーブス」石嶺和彦は守ってもすごかった

  
石嶺和彦さんの記事が「週刊ベースボールONLINE」に掲載されています。同サービスは有料・登録必要な記事が多いのですがこちらの記事は無料で読めます。

 
阪急ファンの皆さんは十分ご存知の通り、強打の捕手として入団した石嶺選手。その打撃は外野へのコンバート、そして指名打者(DH)に固定されたことで一気に開花します。

 
管理人はこのころの阪急打線がかなり好きです。(この当時に、かなり球場に通いつめたことも影響しているのかもしれません)

 
特に87年。成績は西武の後塵を拝し2位にとどまりましたが、3番ブーマー、4番石嶺と並ぶクリーンナップがとても好きでした。右打者の大砲が2人並ぶ打線は、その後のブルーサンダー打線よりも迫力を感じた気さえします。

 
写真でも少し見えますが、この年まで着けた29番の背番号(翌年から3番に変更)も、とても似合ってましたね。

  
(プロ野球1980年代の名選手)石嶺和彦 災い転じて福となした勇者のスラッガー/プロ野球1980年代の名選手(週刊ベースボールONLINE)
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/…
 

 
その石嶺選手、1975年から導入された指名打者(DH)での出場が多かったわけですが、この制度の魅力を最もよく知るのは我々阪急ブレーブスファンではないでしょうか。

 
「指名打者制度を活用し、代打の神様・阪急の高井をもっと試合に出さないともったいない」

 
とアメリカ人記者が記事にしたことが、DH制導入のけっかけともいわれています。

 
DH制導入後、高井選手をはじめ、外国人助っ人など、多くの強打者がその制度の恩恵を受け、好成績を残し球史を彩ってきましたが、中でも1980年代後半はハイレベルなベストDH争いが演じられます。

 
特に1989年~90年は同一球団で・・・。

 
一人は、南海が生んだスラッガー、門田博光。1979年にアキレス腱を断裂した後は指名打者専属へ。もう一人は沖縄が生んだ「最後のミスターブレーブス」、石嶺和彦。捕手で入団したものの膝の故障で外野手へ転向。代打で着々と打撃実績を積み上げ、1986年には打率3割、33本塁打を放ち指名打者に定着。この年ベストDHも獲得し、その後、4番として活躍を続けるのはご存知の通り。

 
そして、この二人が1989年、ホークスの福岡移転に伴い、ブレーブス(オリックス・ブレーブス)のチームメイトとなるのです。この時のブルーサンダー打線の破壊力は今でも伝説的ですが(別記事あり・下部リンクご参照ください)、この年、球界を代表するDHが同一球団に2人揃ったことで、守備位置争いが起きてしまいます。結局、1989年は二人がレフトを65試合前後ずつ守りシーズン終了。

 
門田が42歳を迎えた翌1990年、守備では門田がおもに指名打者、レフトに石嶺とほぼ固定されます。レフトに固定された石嶺は、元捕手の強肩をいかし、なんと14捕殺でパリーグの捕殺王となります。ゲームでのデータや本人のテレビでの発言などで守備がうまく無い印象を持たれたこともあったようですが、攻守で頼れる選手でした。結局この年、石嶺は打点王も獲得します。

 
この(青い)勇者が誇る門田、石嶺のホームランの見ごたえ抜群の特集動画を見つけましたので、皆さんと共有したいと思います。今考えても、この二人に加え、ブーマーや藤井、松永に福良まで揃った打線は、まさに伝説と呼ぶにふさわしいものです。

 
(K.G)
 

https://youtu.be/6aRqBeleY4g

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