阪急ブレーブス通信

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偶然すぎる?アダム・ジョーンズと「阪急最後の四番」藤井康雄との共通点


2020年、アダムジョーンズ選手の来日は各方面から大きな注目を浴びています。理由はご存知の通り、圧倒的なメジャーでの実績。特にメジャーで記録したホームラン数は圧巻の282本。


この数字がどれくらいすごいかと言うと、かつて近鉄で活躍しメジャーのホームラン王にもなったオグリビーがメジャー通算235本、ヤクルトで怒涛の活躍をしたホーナーが218本。他にも大物と言われた助っ人がたくさんいましたが、とにかくジョーンズ氏の経歴が凄いということはニュース等で言われている通りです。


この助っ人をオリックスが本人も希望する背番号10で迎え入れています。

 
ところで、この「282ホームラン、背番号10、オリックス、外野手・・・」全く同じ経歴を持つあの選手を思い出した方も多いのではないでしょうか。あの選手とは、阪急・オリックス一筋で活躍した藤井康雄選手です。コーチとして多くの選手を育て、今年からは解説者として活躍しています。そして何と言っても現役時代に描いた数々の長打。プロ入り2年目には20本を放ち、最終的に通算282本塁打を積み上げた同選手ですが、今回はホームランを量産するまでの活躍を中心に振り返っていきましょう。
 

背番号10をつけた時代の藤井康雄選手

 
【小学校~高校時代】
小学校時代、福山市のソフトボールチームでは恵まれた体格をいかし毎試合のようにホームランを打ち早くも存在感をしめしていた藤井選手。中学になると近くに住んでいたという元高校球児の知人に野球を教わったが、その傍らで空手にも真剣に取り組むという一面を持っていた。中学に進んでからも野球での活躍は目覚ましく、多くの高校から誘いがくるまでになった。その誘いの中から強豪校がひしめく大阪の、泉州高校(現・近大泉州)を選び、打撃はもちろん投手や外野手として活躍した。技術面だけでなく、精神面でも鍛えられたと後述する高校時代、しかし残念ながら甲子園へは届かず、全国大会は出場とならなかった。


【社会人時代】
高校卒業後(1981年)は、当時、創部3年目ながらも後のプロ野球選手になる逸材が揃うプリンスホテルに入団し6年間プレー。守備位置はファーストが中心であった。1984年の8か国大会の決勝では全日本の4番として延長戦で見事勝ち越しタイムリーを放つも、その裏にチームは呂 明賜(後に巨人)に逆転3ランを打たれ大きな悔しさが残った。一方、1986年の都市対抗・準々決勝で伊藤敦(阪急最後のドラ1)から決勝3ランを放つなど華々しい活躍も見せた。


【阪急入団】
1986年秋のドラフトでは阪急が指名。キャンプでは長打を連発し、首脳陣や報道陣からの注目度も上がっていった。当時、ファーストはブーマー、DHは石嶺と不動、外野手も福本、簑田、熊野に加え同期の本西など簡単に食い込める状況では無かった。また右肩を痛めていたこともあったが、打撃が評価され見事に1987年開幕ベンチ入りを果たす。そして開幕の南海戦で4点ビハインドの9回裏、代打で2塁打を放つ。この2塁打が打線に火をつけブーマーの同点満塁ホームランへとつながった。87年前半の阪急ミラクル進撃に藤井は深くかかわってくるのである。この年は代打で結果も残し、夏以降は外野手としてもスタメンに名を連ね、そして結果を残した。


翌1988年、簑田が移籍し、チームとしても野手の怪我人が多い年であった。特にブーマーの離脱は響いたが、そこでクリーンナップとしてスタメンに名を連ねたのが藤井であった。結果を残し続けた藤井はブーマーが復帰後もスタメンに定着し、前半戦終了時に3割7本、東京ドームのジュニアオールスターに選出。その頃、テレビでは同じくジュニアオールスターに選出された巨人の呂フィーバーが凄まじかった。そんな中、藤井は0-0の均衡を破る決勝ホームランを放つ。試合はそのまま1-0で決した。試合前まで呂ばかり注目されていたが、結果を残したことで社会人時代の8か国大会決勝での雪辱も見事に果たした。


・・・この年、ホームランを20本を放ち翌年からは史上最強のブルーサンダー打線の一角として名を連ね、押しも押されもせぬパ・リーグを代表する長距離砲に。30本(89年)、37本(90年)とホームランを量産するだけでなく、満塁での好機に強く、満塁ホームランは歴代3位の14本を記録。しかしながら、そのファンを大事にする人柄から、記録だけでなくファンの記憶にも深く刻み込まれた選手だったと思います。

 
今シーズンのジョーンズ選手と合わせて、藤井選手のホームランに思いを巡らせるのも楽しみ方の一つかもしれないですね。(K.G)