阪急ブレーブス通信

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阪急ブレーブスの「初打席・初ホームラン」といえばこの人、強烈なリストで糸を引く打球を放った村上信一(眞一)選手

オリックスがブルーウェーブのユニフォームをまとった今日(2020年9月15日)、大下誠一郎選手が育成契約からの選手登録、即一軍、即スタメン、初打席でいきなりの3ランホームランという凄まじいデビューを飾りました。

また「初安打・初ホームラン」ということで言えば、シーズン開幕当初には、高卒2年目オリックス太田椋選手がプロ入り初安打・2安打目をホームランで飾り、ニュースに大々的に取り上げられました。

「初打席」「初ホームラン」で思い出されるのが、今でも一部に熱烈なファンがいる阪急からオリックス時代にかけて活躍した村上信一(眞一)選手(以下敬称略)です。


村上信一選手は高校時代、千葉の名門印旛高校で大活躍、1981年の春の全国大会では準優勝。この時代の印旛高校は全国でもPLと並ぶ強さで、同世代の選手から「この時代、村上のいた印旛が強かった」と称されていました。印象深い独特の左打ちは、高校時代に遊びでマシン相手に左で打っていたところ、その打撃をみた監督から「左打ちに転向しろ」と言われてできたもの。我々を魅了したあの鋭い打球を生むスイングは驚くほど短期間で完成されたものでした。


その後、1982年に阪急ブレーブスに入団した村上が頭角を現すのは高卒三年目の1984年。ウエスタンリーグ開幕戦でいきなり1試合3本塁打を放ち注目を集め、バンプと入れ替わりで8/9対南海戦(大阪球場)に一軍登録されます。この日の試合、阪急は2-4でリードされた9回表、福本が2ランを放ち4-4の同点に追いつきます。

そして10回表、2アウト1塁で村上が代打で登場。1ボールから南海加藤が投じた2球目を見事にライトスタンドに叩き込みます。10回裏は山沖が見事に抑えて、対南海3連勝を飾る決勝ホームランとなりました。試合後のインタビューでは「びっくりしたですね!(言葉そのまま)」と嬉しそうに語る姿がスポーツニュースの映像でも流れました。プロデビュー戦、いきなりの代打出場での初打席代打ホームランという偉業を達成しました。

村上の快進撃はこれだけにとどまりません。それから1週間後の8/16。この日、チームは窮地に追い込まれていました。8回裏までロッテ深沢投手相手に無安打無得点に抑え込まれます。

あわやノーノーの危機に登場したのが代打村上。前回の南海戦以来の公式戦出場、調整が難しいであろうこの場面で見事に代打ホームランで応えます。プロ入り初打席、2打席連続代打ホームランというプロ入り初の快挙を達成しました。この記録はメジャーリーグでも達成されていない世界記録(日本では、2016年広島バティスタが達成)。試合は負けてしまいましたが、村上に続き福本もホームランを放ち、チームは翌日以降につながる展開に持ち込むことができました。


この救世主村上誕生も後押しして1984年は阪急はリーグ優勝。日本シリーズでは第2戦、1-2のビハインドで迎えた9回裏1死1,2塁、またしても代打で登場。今、映像で見返しても高卒3年目とは思えない落ち着きで同点2点タイムリーを放ちます。この勢いに乗り阪急は逆転勝利。村上の大舞台での活躍が大きな勝利につながりました。

 (※動画内の映像で解説稲尾氏が、「村上の初ホームランはロッテ戦」と発言しますが、これはプロ2本目の誤り)

 
1984~85年にかけて村上は代打の切り札としてはもちろん、スタメンでも勝負強い打撃をみせます。88年は代打の切り札的な存在で試合終盤を盛り上げます。9/18では中盤の満塁のチャンスで代打で登場し、見事に2点タイムリーを放ち、俊足ながらもそのまま代走選手と交代しベンチへもどる姿は若手ながらも貫禄十分でした。

 
1990年はブーマーの故障もあり、出番が増えます。特に活躍が光ったのは5/31の西宮球場での近鉄戦。7回裏満塁の場面でまたしても代打で登場。ここで引っ張った打球はライトへ飛び込む代打満塁ホームラン!この年はスタメンでの出番も増え、規定打席不足ながら.302、5本という好成績でシーズンを終えました。

 
翌1991年は怪我で試合に出る機会が減ってしまいますが、1992年は復調。春先の2軍のトーナメント戦で4安打の活躍、すぐさま5/4に一軍に昇格し、いきなりスタメンで5打数5安打!チーム10得点に大きく貢献します。(ちなみに翌5/5は石嶺が5打数5安打!)5/8、姫路の試合ではリリーフで下手投げの投手が登板したところを、ホームランで打つ場面もありました。後のこの継投(左打者の自分に対して右下手投げの投手を出したこと)に対しては「燃えた」とコメント。この試合では4打点を挙げました。

その後、3割近い打率をキープしながら迎えた7/11のダイエー戦。スタメン・レフトで、見事なホームランを放ち2打点の活躍を見せるも、打った直後に故障してしまい、高卒1年目の鈴木と交代します。結局、調子が良かったこのシーズン、この故障がきっかけとなり長期離脱を余儀なくされました。翌7/12、レフトのスタメンは鈴木が務めることになり、同じ右投左打ちの鈴木は2019年に引退するまで日米で多くの大記録を残すこととなります。

レギュラー確保まであと一歩と迫った1992年に続き、1993年も出遅れてしまいますが、2軍で.330 8本と打ちまくり、何とか9/26に一軍初打席を迎えます。この日は代打で登場し2打数2安打。その後も打ち続け、終わってみたら19打数9安打.474。本塁打2、二塁打6本で長打率は驚異の1.105。何と十割をこえてしまいました。チームも村上復帰後は10勝3敗1分と勝ちを呼び込む大活躍でした。

 
1994年から怪我の影響もありましたが監督が代わったこともあり出番は激減。94年の春季キャンプでは長打連発し、ニュースでも取り上げられ活躍が期待されていただけに残念でした。特に1995、96のチーム優勝時は2軍で.291、.305と数字を残しながら、一軍昇格は一度もありませんでした。チームはシーズン終盤や日本シリーズで「代打不足」が叫ばれていただけに残念でした。特に1995年では経験の少ないチームの中で1984のシリーズ経験を活かしてほしかったと個人的には思います。1995、96の連覇の中にも、代打村上を待ち続けていた勇者党がいたことを知っていただければ、嬉しい限りです。(K.G)