「西本幸雄と上田利治」最強阪急を作り上げた二人の名将
7月は阪急ブレーブスを3連覇に導いた名将、上田利治監督の命日(7月1日)。当サイトでも今月は上田利治の功績を振り返ります。
今回は下記の産経新聞による上田監督の追悼特集をピックアップします。
産経新聞【追悼・上田利治さん(上)】
常勝・阪急の土台づくりの秘密とは…監督自ら渡米し選手獲得
こちらの特集、上田さんが監督に就任されて一年経った、74年のオフからはじまります。
なお、上田監督の就任は73年、それまでに指揮を執ったのは西本幸雄監督です。西本幸雄監督については、下記の記事で紹介しています。「弱小」阪急を初優勝をはじめ5度の優勝に導いた熱血漢でした。
西本幸雄監督から阪急を引き継いだ上田監督にとって、西本監督が成しえなかった日本一を果たすことこそが、指揮官としての使命でした。
この74年のオフ、ロッテとのプレーオフに破れた上田監督は自ら外国人選手の獲得に動きます。
上田監督が自身のコネクションを頼りに直接獲得を決めたのが、後の阪急黄金期を支えるマルカーノとウイリアムスです。記事にもありますが、今のGMのような仕事も監督である上田さんがやっていたのです。何という情熱でしょう。
この記事のクライマックスは76年、巨人を倒しての日本シリーズ制覇です。
前年の75年、ドラフト一位で入団した山口投手の活躍もあり、日本シリーズで広島カープを圧倒。初の日本一に輝いた阪急でしたが、上田監督をはじめ選手たちには今ひとつ実感がわきません。
それもそのはずです。かつて西本体制時に幾度も日本シリーズで苦杯を舐めさせられた、巨人を倒しての日本一ではなかったからです。
当時の阪急はパ・リーグでは敵なしも、日本シリーズではどうしても巨人に勝つことが叶いません。巨人の「V9」に実質5度も貢献してしまうことになりました。
そのため「巨人を倒してこそ真の日本一」という思いがチームに芽生えるのは当然のことだったと言えるでしょう。
むかえた76年のシリーズ。敵地後楽園で幸先よく連勝。西宮に戻ってもマルカーノ、ウイリアムスらの打棒により勝利し、あっという間に王手をかけます。
ここでチームに気の緩みが生まれたわけではないでしょうが、さすが相手は巨人。ここから巻き返しついに3勝3敗と追い詰められます。
特に6戦目は序盤に5回までに7対0とリードしておきながらの逆転負け。チームのみならず、日本中が「巨人逆転日本一」のムードとなります。
そんな四面楚歌の状況の中、最後の第7戦の先発を足立投手に託すくだりは今読み返しても胸が熱くなります。
果たして足立投手はその冷静な投球で巨人打線を封じ、ついに阪急ブレーブスは見事巨人を破っての日本一に。まさにこのとき「最強阪急」は完成したといって過言ではありません。
(↓76年日本シリーズ第7戦、足立投手の記事はこちら)
この特集記事の最後は、2014年に上田さん本人へのインタビューの再掲です。ここで上田さんはオリックスへエールを送っています。
思えば、これが上田監督が最後にオリックスにのこした遺言のようにも感じます。不思議と今年のオリックスにピッタリと符合するような言葉です。
「最強阪急」の遺伝子たちが、今少しずつですがチームに戻りつつあります。上田監督が阪急ブレーブスにかけた情熱が、今一度チームに吹き込まれることを思わずにいられません。