阪急ブレーブス通信

〜阪急ファンで行こう!EVOLUTION〜

阪急ファン、青波ファンに愛された魅惑のバイプレーヤー柴原実


今夏も高校野球は大きな盛り上がりを見せています。最近は校名変更などでかつての強豪校が違う名前で登場することも多々あります。2019年出場の岡山学芸館もその一つ。以前は金山学園という名称でした。この金山学園という名称をきいて「聞いたことある」と思った勇者党の方も多いのではないでしょうか。阪急からオリックスにかけて外野手として活躍した柴原実選手の母校でもあるからです。
 

 
中学時代は左腕投手として活躍した柴原選手。プロ入り後に披露した強肩やスローイングの正確さもこの経歴からうなづけます。中学卒業後は私立金山学園に進学、高校1年の夏に倉敷球場で高校第1号を放ちます。その時の感動はプロに入った後も忘れることはなかったと後述しています。
 

 
その後、社会人の常石鉄工へ入社。この進路が柴原の勝負強さを象徴することになります。入社4年目1982年、阪急ブレーブスの秋季キャンプの練習場は何と常石鉄工の練習場。そこで5日間、チームにテスト生として参加した柴原は強肩に打撃に大活躍。西尾投手(福良、イチローの背番号51の先輩)からホームランも放つ勝負強さも手伝い、その秋ドラフトで阪急からドラフト指名され入団します。
 

 
1年目は1安打でシーズンを終えましたが、3年目の1985年は9月からスタメンで出場する機会が増え初本塁打も記録します。
 

(柴原選手のプロ初安打が生まれた試合はこちら)

 
それから数年間、代打や守備固めなどで出場機会があるものの、外野陣のレベルが非常に高いチーム事情もありなかなか出番に恵まれませんでした。

 
迎えた1990年、当時チームの天敵は「マウンドの傾斜が投げやすい」と西宮球場を得意としていた西武のルーキー潮崎。7月5日その潮崎がシンカーを駆使しブルーサンダー打線から連続三振の山を築きます。
 

 
その数、気が付けば「8」。9者連続三振という不名誉な記録を作るわけにはいかない。そして何よりOB梶本投手の連続9奪三振に並ばれてはいけない。そのプレッシャーの中、代打で登場した柴原は見事にレフト前に技ありのヒットを放ち、勝負強さを見せつけます。
 

 
こうした活躍を経て、期待の中で迎えた1991年。柴原選手の個人応援歌も用意されます。原曲は黛ジュンの「天使の誘惑」でした。7月にスタメン出場して安打を放つもこの年は出番に恵まれませんでした。
 

 
そして転機となる1992年。減量に成功し、グランドには一番乗りで入りランニングを行うなど例年とは違う意気込みで臨んだと言われています。5月初旬、レギュラーの藤井が膝を痛めて長期離脱を余儀なくされ、翌日スタメンに名を連ねた柴原は早速ヒットを放ちます。
 

 
7月途中から背番号51のルーキー鈴木(後にメジャー)が結果を出すなどライバルが多いなか、勝負強い打撃と堅実な守備でライトは柴原が死守します。ライトスタンドからの人気も高く、応援歌に入る前には「パンチ」コールと並び「柴原」コールが起こります。(後の「イチロー」コールのような応援)
 

 
前年の活躍を引っ提げて迎えた1993年、藤井が完全復帰しますが、それでもレギュラー争いに食い込みます。打撃も好調でしたが、5月23日、2安打しながらも守備で好捕した際に足を故障、23日は2年目の鈴木(後にメジャー)が代役を務めます。結局、復帰するまで一か月以上を要してしまいます。しかし、7月にスタメンで復帰した際には2安打とこれまた勝負強さが光り、この年は規定打席不足ながら3割をマークします。
 

 
翌1994年はイチロー(以前の鈴木)200本達成時、リードされた中で9回裏に代打逆転サヨナラタイムリーを放ちイチローの快挙に花を添えます。1995年は8月以降、チームが苦しい時期の試合終盤、決勝打を放ち何度もチームを助けます。また、数少ないスタメンとなれば先制アーチを放つなど、その勝負強さに興味を持ったTV番組が「黒髭危機一発」を使い、柴原の勝負強さを調べる特集も組まれます(結果は柴原の全勝)。
 

 
残念なのは翌1996年、チームの若返りのあおりをうけて出番は激減、二軍で.366を打ちながらもなかなか出番が回ってきません。それでも日本シリーズで立った1打席は良い思い出、と語りこの年限りでバットを置きました。チームが強くなっていた時期だけにこの引退は残念でしたが、こういう勝負強い選手がいたからこそチームは常勝球団であり続けたのではないでしょうか。(K.G)
 

現在の柴原さん。清掃会社で次代のリーダー育成に携わる。