1988年10月23日。阪急ブレーブス最終戦。上田監督が残した「阪急最後のメッセージ」
1988年10月23日。阪急ファンは忘れることの出来ない日です。
阪急ブレーブス最終戦。
この年は、パ・リーグにとっても激動の年でした。
シーズン中に、既に南海ホークスがダイエーに買収されることが決定しており、紙面を賑わせていました。
名門、南海ホークスが大阪を離れ、九州・福岡へ移転。これだけでもセンチメンタルな気分が漂っていたパ・リーグに激震が走ったのが10月19日。この日は同じくパ・リーグの近鉄バファローズが大逆転優勝を賭けた大一番のダブルヘッダーを戦ったその日です。川崎でロッテを相手に激闘が行われている最中、「阪急、オリエントリースへ身売り」が報じられました。
こうした大一番の激闘に水を指すタイミングでの会見に、当時も批判が起こりました。今思えば、こういった「空気を読めない」センスの無さが、この会見にはあったのかもしれません。
いずれにしても、この10月19日の発表からわずか4日後の23日にはシーズン最終戦です。身売りの発表からわずか4日後には阪急ブレーブスが消滅してしまうのです。選手たち、球団関係者はもちろん、ファンであった我々も、この悲しさ、悔しさを上手く飲み込めないまま、途方に暮れたまま阪急ブレーブス最終戦を迎えます。
この日の西宮球場もロッテ戦、こちらもダブルヘッダーでの試合でした。最終戦に先発したのはこの年かぎりでの現役引退を表明していた山田久志投手。自身の引退登板が奇しくも阪急ブレーブス最終戦となりました。
同じようにこの日引退を結果的に表明することになったのが、「世界の盗塁王」福本豊選手。彼はこの日までに、事前に引退についてなどは何も表明をしておらず、試合後の上田監督の挨拶が引き金となり、結果的に引退をすることとなります。
さて、ではその上田監督の言葉ですが、実際に巷で言われるとおり、「引退する山田、そして福本」と言っていたのかどうか。事実を確認したくなるのが人情です。
ここでは、その部分を実際の上田監督の挨拶から抜粋します。これが事実です。
球団譲渡のお話を伺ったときに、「夢であれ」「嘘であれ」と思い続けて来ましたが、とうとう実現してしまいました。
(上田利治監督の挨拶より抜粋)
しかしながら、良いたくさんの思い出を作っていただいたこの西宮スタジアム、また、今日の試合をもって引退する山田とか、福本とか、幾多の名選手を生み、育ててくれましたこの西宮球場は、新しいチームの本拠地として存続いたします。
そしてまた、この球場で培われ、皆さまがたに育ていただきました、阪急魂、勇者の魂は、ユニフォームこそ変われ、この立ち並ぶ選手たちの胸の中に、延々と燃え続けるものと確信しております。
どうでしょうか、これが事実です。
実際には、非常に微妙な表現ながらも、前後の文脈を考えると「文節を切った」とも、「二人(山田・福本)をまとめて言った」とも受け取れる表現です。
この辺り、秀才として鳴らした上田監督らしい、かなり綿密に計算された表現だったように感じます。
いずれにしても、この日、上田監督が残した言葉が、阪急ブレーブスから私たちへの「最後のメッセージ」となりました。
ついこの、福本さんを「引退に追いやった」部分ばかりがフォーカスされる上田監督の最後の挨拶ですが、私たち阪急ブレーブスを愛するファンに向けて、今日まで心の支えになるメッセージも残してくれています。
阪急ブレーブスのファンとしてはぜひこの部分にも注目し、忘れずにおきたい言葉です。
「ファンの皆さま方一人ひとりのブレーブスだと思います。そしてまた、私たち選手一人ひとりのブレーブスだと思っております。皆さま方がいる限り、ブレーブスは永遠に生き続けます」
(上田利治監督の挨拶より)
(上田監督についての記事はこちらも)