阪急ブレーブス通信

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最強阪急の布石。大橋穣“禁断”の「同一リーグ正遊撃手同士」トレード

 
名遊撃手として阪急ブレーブス黄金期を支えた大橋穣さんが、上田監督と阪急ブレーブスを振り返っています。


スポーツ報知に、阪急黄金期を鉄壁の守備で支えた、大橋さんによる上田監督をしのぶインタビュー記事が掲載されました。(※2017年の記事です)
 


   
かなり読み応えのあるインタビューで、「名手」大橋が、上田監督との思い出や、当時の阪急での様々なエピソードを紹介してくれています。
 

 
思えば、大橋さんのインタビューが記事になる事自体が珍しく、またここまで阪急について詳しく語ったのは、おそらく引退後初めてではないでしょうか。初めて知るエピソードもあり、大変貴重な記事だと思います。あらためてスポーツ報知に感謝したい気分です。 
 

 
上田利治さんをしのぶ、“上田野球の申し子” 大橋穣さんが思い出語った(スポーツ報知)


大橋穣さんは1968年、東映にドラフト1位で指名され入団。広い守備範囲と強肩で1年目からレギュラーに定着します。(二塁手がゴロを捕球し遊撃手にグラブトス、遊撃手が一塁に送球する「スイッチトス」を日本で初めて披露したのは大橋さんと、コンビを組んだ東映二塁手の木下選手であったと言われています)

 
そんなリーグ随一の守備力を誇る遊撃手となった大橋さんに白羽の矢を立てたのが、他ならぬ阪急ブレーブス西本幸雄監督でした。
 

阪急にも優れた遊撃手がいました。阪本敏三選手です。強打に加え、俊足でも鳴らした阪本選手ですが、阪急首脳には忘れたくても忘れられない場面がありました。
 

あの、1971年日本シリーズ第三戦。山田投手が王選手から打たれた逆転サヨナラ3ラン、その布石となってしまった前打者長嶋のセンター前ヒットです。
 
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「あのセンターに抜けるゴロをショートが処理できていれば」。悲願の日本一が目の前でするりと抜け落ちた、阪急にとっては悔やんでも悔やみきれない場面でした。
 


しかしながら、この頃遊撃を守った阪本選手も入団してすぐに阪急でレギュラーを獲得。4年連続ベストナイン、オールスターに5回出場するなど輝かしい成績を残しています。特に強いリストを活かした打撃と、俊足を活かした走塁が素晴らしく、盗塁王も獲得しています。
 

 
くしくもこのトレードが実現した71年、阪本選手は打率2割8分5厘、15本塁打、36盗塁という堂々たる成績を残しています。これほどの活躍を見せる遊撃手を、普通は手放さないでしょう。
 

 
ところが西本監督は躊躇せず、阪本選手と大橋選手とのトレードに動きます。その背景には71年の日本シリーズはもとより、足立、山田という「ゴロを打たせる」投手が主戦の阪急では、何よりも遊撃手の守備力こそが重要だとの判断があってのことでした。
 


かくして世紀の「同一リーグ正遊撃手同士」のトレードは成立します(大橋選手は種茂捕手とともに加入)。阪急に加わった大橋選手は、その後マルカーノとの鉄壁の二遊間を形成し、阪急黄金期を支えました。7年連続のダイヤモンドグラブ受賞は驚くべき記録です。
 


阪急加入後はその守備力に加え打撃も開花。入団以降3年連続で二桁本塁打を放つなど、獅子奮迅の活躍を見せました。


落合博満がインタビューで「史上最高の遊撃手」に迷わず大橋穣選手の名前を上げるほどの、素晴らしい選手でした。また、報知の記事にあるように、引退後に上田監督から本気で現役復帰を打診されたほど、首脳陣からの絶対的な信頼を勝ち得ていました。

 
一方で東映に移籍(岡村捕手・佐々木投手とともに移籍)した阪本選手も、オールスターに再び出場するなど、内野ならどこでも守れるユーティリティプレーヤーとして活躍。のちに近鉄、南海へも移籍し、14年にわたり活躍を続けました。
  

 
阪急が誇った「二人の」正遊撃手。阪急ブレーブスは歴史の重要な転換点で様々なトレードを行いましたが、この二人の遊撃手同士のトレードは、その後の二人の活躍を考えても、お互いに成功だったと言えるのではないでしょうか。